著者が文化人類学者として研究活動するなかで見つけた「研究のための方法論」を、若いころの失敗例から始まり時系列を追って「京大型カード」へと発展していくさまを綴ったエッセイ。
目次
書誌情報
- 書名:知的生産の技術
- 著者:梅棹忠夫
- ジャンル:学術
- 図書分類:002 : 知識.学問.学術
「頭が良い」とは俯瞰する能力である
ある人のことを「頭が良い」というとき、何をもって頭の良さを評価するかはおそらく万人が一致するものはない。きっと記憶力がいいとか、IQテストで140点以上あるとか、誰も思いつかない発明をするとか、それぞれ違う観点から頭の良さを評価しているだろう。もしかしたら有名大学を卒業していることが頭の良い条件だというひともいるかもしれない。
ここで頭の良さを「一見すると似たようなふたつの事象であるが、より高次の観点から俯瞰することでそれらをきちんと区別できる能力」と定義すると、まちがいなくこの著者は頭が良いといえる。彼はこの本のなかで次から次へと問題点を切り分け、より高次の抽象概念として分類しなおし、それまでの「なんとなくの方法論」だったものをひとつの確固とした「再現性のある技術」へと昇華している。ただ、それは完成したものではなく、開発も体系化もまだまだこれからであり、まえがきでも述べられてるようにこれからつづく者たちにその先を進めることを期待している。
形式として規格化を全てに適用する
著者梅棹忠夫は文化人類学者で国立民族博物館の館長として名を知られているが、もともとは京大の理学部卒(動物学)である。つまりその思考過程は文章からも読み取れるとおり極めて「理系的」だ。ここでいう理系的とは、数学体系的、つまり「形式に非常にこだわる」という意味である。著者はこの本の全11章を通して一貫して「形式」にこだわっている。
1章から3章まではあの有名なB6判の「京大型カード」について述べられている。ダ・ヴィンチに憧れて手帳を持ってメモ魔になったり、スクラップブックに新聞の切り抜きを貼り付けたりと、昭和の知識人なら誰しも通った道を例に漏れず著者も試している。そこでひたすらに死蔵される資料をどうにかしようとたどり着いたのが「規格化されたカードに記入する方法」だ。
「京大カード型」の作成方法
彼はこれを自分の知的活動のすべてに押し広げ、「研究の過程も、結果も、着想も、計画も、会合の記録も、講義や講演の草稿も、知人の住所録も、自分の著作目録も、図書や物品の貸出票も、読書の記録も、かきぬきも」すべて同じ型のカードに記入している。ここで著者は「かくときには、内容による区別をいっさいしないほうがいい。おなじ種類のカードに、とにかく、とりあえずかく」と強調する。規格化されたフォーマットに情報を落とし込むことの重要性がここで明記されている。
カードの記法についても形式が固まっている。大事な点は次の3つで、「ひとつのカードにはひとつの事項だけ」「年月日を必ず入れる」「上部にみだし(一行サマリー)を書く」である。これは要するにUNIXのファイルシステムと設計が一緒で「ひとつのファイルにはひとつの内容」「タイムスタンプを押す」「わかりやすいファイル名をつける」ということだ。カード式情報システムとUNIXが同時期に同じ設計に至った点は興味深い。なお、UNIXでは接続されてるデバイス全てがファイルとして扱われる(キーボードもディスプレイも形式上「ファイル」として操作される)点も、全てをカードに記録する「京大型カード」は酷似している。
カードに記入にするさいの注意点としては「カードにかくのは、そのことをわすれるためである。わすれてもかまわないように、カードにかくのである」と著者は述べる。「カードをかくときには、わすれることを前提にしてかくのである。つまり、つぎにこのカードをみるときには、その内容については、きれいさっぱりわすれているもの、というつもりでかくのである。したがって、コードなしの記号や、自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、しないほうがいい。一年もたてば、自分でもなんのことやらわからなくなるものだ。自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、ということをわすれてはならない」と続くこのくだりは、プログラミングで自分の書いたコードが読めなくなったことのある者には実に耳が痛い。
「京大カード式」の利用方法
カードの利用のしかたは、机上に並べてあれこれ関連のありそうなカードをグループにする。カードは操作するために作成するものであって、決して固定化された分類にしたがって棚に死蔵してはいけない。グルーピングも客観的な類似項目でするのではなく、主観によって自分で関連を見つけ出す。つまり知識の並べ替えこそが創造の過程なのだ。そしてそこで新たに発見された事項もすぐカード化する。
この手法は川喜田二郎のKJ法に酷似しているが、それもそのはず、川喜田氏は著者の梅棹氏の弟子にあたり、つまり京大型カード法の正当後継者がKJ法になる。
「カードは、適当な分類さえしておけば、何年もまえの知識や着想でも、現在のものとして、いつでもたちどころにとりだせる。カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である」と述べる