書評と知的生産

幼年期は終わり、人類は新しいステージに立つ

2020-04-09

突如として地球に飛来した宇宙人「上帝オーヴァーロード」たちは、けっして地球人の前に姿を現さず、ただ静かに人類社会の発展を手助けする。彼らの目的は人類を次のステージへと旅立たせることであり、はたして人類は物質文明との決別の時を迎える。

書誌情報

  • 書名:幼年期の終わり
  • 著者:アーサー・C・クラーク
  • ジャンル:SF
  • 図書分類:933.7 : 小説.物語

古典SFと現代SFの違い

ヴァン・ヴォークトのような作品を「古典SF」と呼ぼう。未知の生物や現象と出会い、人々がなんとかして生き延びて大団円を迎える、そういったストーリーの骨子をもつ作品の一群である。こう定義すると古典SFは本質的に冒険活劇や、あるいはホラーに近い。読者はドキドキハラハラ、つまり「スリル」を求めてページを繰りつづける。

一方でアーサー・C・クラークなどを「現代SF」と呼んでみる。最初に不可解で大きな謎を読者に提示し、物語の終盤で最後のピースがハマったとき、読者は「なるほど!」と納得し全てのストーリーラインを理解する。この感覚こそが「センスオブワンダー」だ。現代SFはそうするとミステリーに近い。読者はなぜどうしてと、つまり「サスペンス」に焦がれて物語を追う。

古いSFだが古臭さを気にさせないパワー

本書「幼年期の終わり」はそういった意味で良質の現代SFだ。刊行は1953年という古い時代であるにもかかわらず、読者をまったく飽きさせない。もちろん作中に出てくる科学技術の表現は古臭く、通信ネットワークなどの情報科学は存在すらしない。それでも最序盤に登場する上帝オーヴァーロードの謎だらけの行動を知りたくて、読者は夢中で読み進める。そして彼らの真の目的を理解するころには、ストーリーはまったく別の次元へと展開しているのだ。

ここで書評としては問題点、それも大問題点がひとつあって、現代SFが本質的にミステリー小説と同じ構造であるということは、物語のいちばん面白い部分を語ろうとするとそれは必ず「ネタバレ」にならざるをえないということだ。センスオブワンダーを共有するためには、物語の伏線を全て洗いざらいにする決定的な箇所について言及しなければならない。

残念なことだが私にはまだそれをする勇気がない。そこでここでは本書の周辺情報について書こうと思う。

初版と改訂版の違い

「幼年期の終わり」にはふたつの版がある。最初に出た1953年版と、第1章を書き直した1990年版だ。どちらも物語の筋にはいっさい関係なく、項数にしてわずか5ページ。本筋は第2章からはじまるのでただのフレーバーの違いだ。1953年版はソ連がまだ存在していた時代のもので、米ソ間の軍拡競争のさなかである1970年代にオーヴァーロードたちとのファーストコンタクトが行われる、という筋。一方の1990年版はアメリカとロシアがともに国際宇宙開発の一員として火星探査を行う21世紀初頭にオーヴァーロードと出会うという筋。著者はどうしてもこの現代史の大きな転換期を作品に反映させたかったのだろう。ちなみに本筋が1970年代から2000年代へと30年ほどずれたおかげで、本文中の科学技術の古臭さがいっそう際立つようになってしまったのはご愛嬌。

この1990年版を収録しているのは光文社古典新訳文庫で、クラークみずからまえがきを新たに起こしているのだが、ここで彼が若かりしころ「超常現象と呼ばれているものの数々の証拠に心酔していた」と吐露しているのが面白い。クラークはUFOも超能力もオカルトも霊能力も大好きで、それが本作にも滲み出ているのだ。

形而上学あるいは精神世界への憧れ

アーサー・C・クラークの名前は知らないひとはままいるだろうが、「2001年宇宙の旅」の著者だと言われればたいていの日本人なら分かる。いってみればSF界の大重鎮である。そんな彼でも中二病全開で執筆していた時期があるというのは可笑しみがあると同時に、エンタテイメントの隠された秘密をかいまみせてくれてるのではないかと考えを巡らす。つまり良質の物語を書くためには、著者の魂に形而上学への興味がないといけないのだ。

もうしばらく思索を深めてから、この「形而上学への興味」という話題とそして本作「幼年期の終わり」の後半部分への考察を記事にしたいと思う。

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